金を滅ぼし、高麗を服属させたフビライの蒙古帝国は、いまだ健在の南宋を攻略するため、 これと事実上通商関係のあった日本に国交を求めた(文永3=1266年)。 蒙古帝国は東亜細亜の伝統に習ひ、中華王朝の継承者をも自負してゐた。 蒙古皇帝の国書を委ねられた高麗は、たうぜん日本の国情を知ってゐただけに、板挟みの苦境に陥ったことだらう。
当時の我が国は、鎌倉幕府の生成期に当たり、外交関係は律令制の下にあった。 国書は太宰府を支配してゐる幕府の手に落ちたが、これは朝廷に奏上されなければならない。 院の御所(律令制官僚機構)は、国書の形式的不備を理由に黙殺を決定。 何時の世にも官僚機構といふのは前例主義に慣ふものである。これにより蒙古帝国との衝突は不可避となった。 しかしもし仮にここで国を開いてゐたとすれば、我が国は英国と似た歴史を辿ったかも知れない (むろんヨーロッパの近代化といふ点を除いて)。この場合、今の日本及び日本国家は存在しなかった筈である。
かの国は軍を高麗に派遣、侵攻準備と併行して再度の使者(女真人・趙良弼)を送ったが、 朝廷は社寺に敵国降伏を祈願せしめ、鎌倉の執権北条時宗は九州の後家人に防戦方を指令した。 ここで朝廷に攘夷を断念せしめれば、生成途上の武家権力は崩壊しただらう。 のみならず、実質上の権力者時宗は禅宗を通じ、蒙古帝国=世界帝国の本質を知ってゐた。
使者の趙はこの状況を復命、遠征の危険を上申したが、フビライはこれを一蹴。 戦争は恰も賭博の如く、最終的には資金(=人口)のある方が勝つことになってゐる。 ただアウェィの戦ひは不利であり、まして兵站維持の困難な渡海作戦は全軍崩壊の危険を孕む。 慎重な騎馬民族国家は威力偵察の必要を考へただらう。
蒙古は高麗型の艦船(大小)九百隻に蒙古軍二万、高麗軍六千弱、女真人や漢人などの混成部隊を載せて侵攻した。 その目的は威嚇と偵察である。無用な戦で敗北を喫してはならない(用兵の機微は不敗神話の確立にある)。 しかし戦場は酸鼻を極め、毒矢・短弓・鉄砲(炸裂弾)を用ひる集団戦法が、鎧武者の一騎駈けを蹂躪した。 戦争は文化行為の一種でもある。
しかし深追ひは禁物である。必死の兵は数倍の戦力に匹敵する。しかも馴れぬ敵地での勝算ほど当てにならぬものはない。 優勢な蒙古軍が撤退した理由について、朝鮮の東国通鑑に拠る暴風雨説(大日本史)が一般化してゐるが、それだけではあるまい。 高麗史に拠れば、洋上への撤退は蒙古軍指揮官の判断に因るものであった。
そもそも騎馬民族は確実な勝算がなければ戦ふ必要がなく(彼らは元々が定住民ではない)、 逃げることは単に戦法の一種なのである。高麗に帰還した蒙古軍は、戦死と暴風雨による死者を除いた、約3分の2と記録されてゐる。 タタール人の「末裔」であるロシア軍が、ナポレオン戦争や日露戦争、対独戦で同様の戦法を用ひたことは記憶に新しい (不思議に対日戦争では「敗因」に繋がるのだが)。
翌年、蒙古は日本国に宣諭使を遣はし、同時に本格侵攻を準備した。 そのうち南宋も滅亡、日本は東亜細亜における唯一の敵対勢力となった。 今回の兵力は前回の5倍を凌ぎ(これは前回の結果を五分程度に見たことを意味する)、 艦船四千数百、兵員十四万といふ本格的な遠征軍であって、農機具や調度品まで積載してゐた。 その上、今回は日本を服属せしめることが目的であるから、遠征軍による無用の殺傷と諸将のイザコザまで禁じられた (実際は対馬・壱岐で前回以上の殺戮=ジェノサイドが行はれてゐる)。
しかし対する鎌倉幕府も準備に怠りはない。幕府は宣諭使を斬首し、攘夷の意思を天下に公布した。 幕府への権限集中は進み、文永の役の翌年にはモンゴル遠征の計画まで練られてゐる。 一見無謀なやうだが、防御側は上陸可能地点に散開せざるを得ず、対する攻撃側は防御の薄い地点へ集中する。 国土防衛を担ふ幕府としては当然の対応であった。
同時に沿岸防備の石築地が造営され、山陰から山陽・北陸まで警戒区域に加へられた。 ここに至り、外圧は鎌倉政権の基盤を執権政治から武家政権へと変質させ、公武の役割分担を明確にしたと云へる。 7世紀と云ひ、この世紀と云ひ、19世紀と云ひ、「軟弱」な時代が「種」を宿し、その種が外圧を迎へて結実・開花するといふのは、 我が国が無意識に選択する「歴史的戦略」であるかも知れない。
蒙古軍は二派に分れてゐたが、そのうちの東路軍(前回とほぼ同じ勢力)は遅れた江南軍(兵十万)を待たず、博多湾に侵攻した。 迎へ撃つ倭軍は上陸を許さず、海上に追撃して壱岐まで逃避させた。 やがて合流した蒙古軍は「神風」に遭難、退避するところを倭軍に追撃され、4分の3の兵力を失ふに至る。
その後、幕府は蒙古遠征軍を編成し、その一部が高麗まで進出してゐる。 一見無謀なやうだが、国力の圧倒的に劣る倭軍としては贅沢な戦は出来ない道理である。 これを受けたフビライは倭の反攻を虞れ、斉州島・合浦・杭州湾から江南まで守備を固めた。 が、これに懲りることはなく、日本遠征計画はフビライの死まで続く。 小国日本が人口の数十倍する世界帝国に抗ひ続けることは不可能であるといふ計算に基く。
だがフビライの勝算も、民族を統合した大帝国の余命を見過ごしてゐた。 元が滅びるのは、これから僅か数十年ほど後のことである。 尤も、いくさを追ふやうにして亡くなった時宗が、生前にこれを予期してゐたかどうかは定かでない。 いづれにせよ、「元寇」(この語は江戸末期の「国難」に際して生れた)は、 現代の脚本に描かれるやうなナマヤサしいものでないことだけは確かだ。